お知らせ

18 February,2007
POSTED18:01:35

大文字での議論

メディアに接触する時の態度(行為)、すなわち「読む」「見る」「聞く」などに代表される動詞は、それが意味するところのダイナミックレンジがとてつもなく広い、ということに対して、なぜか私たちはとても寛容です。

「最近の若者は本を読まなくなった、とよく言われるがそんなことはない、彼らは膨大な量のWeb上の文字を読んでいるではないか」という言説をよく耳にします。ここには、Web上でのテキストを「読む」という行為と紙に印字された文字を「読む」という行為を同一視することで単純な足し算が成立するという暗黙の了解があります。

ところが最近の脳科学研究分野では、透過光を見ているときと反射光を見ているときでは脳の発火する箇所が違うということが観測されています。発火している場所が違うのに、それが同じ行為だと解釈するのは相当無理があります。この場合の「読む」という行為が、ひとつの言葉で括ることができない別の行為であるということは、前提条件が揃っていないということに他なりません。従って、この後に続く議論にもあまり意味はありません。電子出版と言われる分野ではこのあたりの重要な差異をすべて「読む」という大文字の言葉に包含させてしまうことで、なんら結論の一致をみない、無意味に盛り上がるだけの議論(consummatory)のためのうってつけの素材として利用しているように見えます。

例えば「ネットは本を殺すのか」なんてのはそのもっともわかりやすい例です。「ネット」にしても「本」にしても「殺す」にしても、ここでの議題設定に出現する言葉はすべてが大文字だけで構成されています。大文字だけで構成された問いかけはたいていの場合、とても盛り上がりますが、同時にとても無意味なものになります。

やっかいなのは「ネット」にしても「本」にしても、個々のレベルでそれがどんなものか「判っているような気がするので」議論への参加を容易にしている点です。だから議論がとても盛り上がり、かつすれ違うわけです。インターネット上のサービスでもありとあらゆるものがあるし、本も、小説からビジネス書・辞書まで様々な形態があります。同じ本でも例えば小説は、ビジネス書よりは音楽CDのカテゴリに入れたほうが自然なものかもしれないのに。

あるいは、「あなたは一日あたり何時間くらいテレビを『見て』いますか」という調査票を受けとった時、この「見る」という言葉が、あまりに簡単に解釈できてしまい、なおかつそのどれもが間違いではない、つまりダイナミックレンジが広いので、毎日テレビで映画を2時間くらい「凝視」している人と、テレビのスイッチはONになっているけど、存在感の少ない音と映像の環境、としか考えていない人の差が検出できません。しかし、結果は「日本人は一日あたり平均で3時間テレビを「見ている」になります。

しかしメディア系での大文字議論の話はまだ平和です。同様の類が国会審議での論戦で行われているのを見るとぞっとします。国会で大文字の議論をやってはいけないのです。対象(Object)を明確にするためには、そのひとつの対象に対してたくさんの言葉を使用する必要があります。多角的にたくさんの言葉をぶつけることで誤解はぐんと減ってきます。従って言葉をたくさん使い分けることができるというのは、論理的に議論を構成するための必要条件になります。「論理的な議論が構成できる人」というと、なんだかクールな性格の人と思われがちですが、まったく逆です。

言葉を知らないということは、すべての表現が大文字になり、レトリックが使えず、発言のすべてが誤解だらけになり、自分の気持ちを正しく伝えることができず、相手の言ってることのニュアンスも汲み取ることができない、ということなのです。これは無意識に、他人を相当突き放した状態に置いていると言っても差し支えないでしょう。つまり「優しく」ないのです。

Posted by takeda at 18:01 | Trackbacks [0]

13 February,2007
POSTED22:06:26

メディアの中立性?

メディアは中立であって欲しいというナイーブな気持ちも判らないわけではないのですが、メディアに限らず、そもそも中立な存在というものはほとんど私たちの周りに見当たりません。なんらかの偏向や差分こそが存在感そのものなのです。「中立公正なジャーナリズム」を標榜するメディアがあったら、まずは疑ってかかって問題ない。不思議な表現になりますが、もっとも中立に近いのは、「膨大な数の偏向」が集まっている状態のときでしょう(一般に、異なるたくさんの小さなシステムが集合している状態が全体の系としては最も安定します)。

今話題の「あるある大事典」の放映が始まった当初、何ヶ月か連続で見ていた時期があります。半信半疑ではあったのですが、とりあげるトピックそのものや結論の意外性が面白い。しかしある時ちょっと気になって、その数ヶ月間で「あるある」がとりあげたトピックを全部積算してみました。そうすると結論はただひとつ「様々な種類の食事を適当な量だけ摂り、適度に運動するのがよい」という、ごく常識的なことを言っているに過ぎないのです。しかしその当たり前のことをそのまま出しては番組として成立しない(面白くない)ので、それをトピック毎に分割して、トピックのひとつひとつ(レタスというトピック、納豆というトピック等々)を際立たせることができれば番組として面白くなる、スポンサーが喜んでくれる、というだけの話なのです。それをわきまえて見る分にはなんの問題もない。

この「際立たせる」という行為を拡大解釈していくと捏造になるわけです。統計的には誤差の範囲であっても、事実として違うということを言い張ることは簡単です。「際立たせる」と「捏造」は同じ直線上にあります。従って「あるある大事典は捏造だった」ということで大騒きしているメディア自体が、その苦しい立場を二重に露呈していると言えるでしょう。

テレビなどのメディアは、小さな変化を拡大再生産することによってしか生き残れない、という事実さえおさえておけばいいのです。「ほとんどの日本人は今日も平穏無事でした」ではニュースにならない(面白くない)ので、普段、自分の周りではほとんど観察することのできない「異常な出来事」を重大な事件や事象として取り上げる。メディアは重要だから取り上げているのではなく面白いから取り上げているのです。しかし面白いから取り上げたとは口が裂けても言えないのであたかも重要であるかのようなトピックの取り上げ方をせざるを得ません。私たちはここに対して意識的である必要があります。


倫理が物事をドライブさせていくのはなかなか難しいのですが、ここにエンタテインメントというシェル(殻)をかぶせると、ユーザーが動いてくれます。楽しさはモチベーションとしては相当強力です。どのようなビジネスでも、事業計画を練る時に「それをユーザーは楽しんでくれるだろうか」という部分を意識すると案外うまくいきます。論理的な正しさ、倫理上の正しさを伝えるときにでも面白さというシェルはとても重要です。逆にユーザーには、エンタテインメントの裏側にある正しさや間違いを見抜く力量が問われているのかもしれません。

Posted by takeda at 22:06 | Trackbacks [0]
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