お知らせ

31 May,2006
POSTED11:42:10

おそ松くん

昔、「おそ松くん」という赤塚不二夫の漫画がありました。その中で、今でもその感動体験を鮮明に思い出せる話があります。

おぼろげな記憶ですが、確か、ふとしたはずみから、イヤミが目の不自由な少女を助けることになり、いっしょに暮らすようになる。その後、彼の尽力もあって、その少女は奇跡的に視力を回復するようになる。イヤミを素敵なおじさまであろうと想像していた彼女の期待を裏切らないために(要するに彼のルックスはまああまり誉められたものではない)、完全に視力が回復する前に、イヤミは彼女の元を静かに去る、というような内容だったと思います。

小学生の頃には、人並みにいろいろな雑誌(『ぼくら』とか『冒険王』など)や書籍を読んでいたりするわけですが、あの漫画体験は、自分の気持ちをとても豊かにしてくれたような気がします(それに相応しい大人として成長したかどうかはさておき)。そういうわけで子供の頃から、漫画=×、読書=○、という判断には賛同できない体験をしているわけです。

現在のように、原典としてのソースのマルチ展開が盛んになっている時に、あらためて「漫画を読むという行為は読書には該当しない」という新明解国語辞典的解釈は間違っている、というか、そういう定義にこだわることにあまり意味がない、とつくづく感じます。

例えば、「最近の新書はあれはもはや新書ではない」という言説を、それを加速させているはずの出版社サイドからよく聞きます。要するに、岩波書店が新書なる形態を産み出した時の思想や背景からずれているじゃないか、ということなんですが、そんなことは若い読者にしてみれば「知ったこっちゃない」です。聴き語りを上手に編集してくれたものを、短い時間で面白く読み切ることができて、価格が安ければ、そりゃあ人気が出て当たり前だろうし、そういうものに人気が出やすい時代背景があるんだろう、と考えるほうが自然です。

「気のおけない仲間」の意味が正反対に変わってくるように、「書籍」、「読書」、「出版」という言葉の意味も変わってくるのは当然なのでしょう。出版という名称は残っても、その性格がどんどん変わっていくという流れをせき止めることができないのであれば、変わっていく様子を嘆き悲しむよりは、より積極的にいじってみたほうが面白いと思います。出版社がやならければ、Web2.0的読者(笑)が、それを加速させてくれるでしょう。

Posted by takeda at 11:42 | Trackbacks [0]

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