26 May,2006
POSTED15:24:28
visual (ビジュアル)は、「視覚の、目に見える」という意味の形容詞です。通常、ビジュアルコミュニケーションというと、映像を利用したコミュニケーション、あるいはそれに順ずる行為、場合によっては映画などの動画を鑑賞する行為などを指すと思われます。
これに対して、ラジオは音だけだし、書籍は活字だけ、従ってこれらはビジュアルではない、というのが一般的な感覚でしょう。しかし、本当にそうでしょうか。
例えば、ビジネス書であれ小説であれ、たった一冊の書籍で、人生「観」や、人・モノ・仕事の「見方」が変わるという経験はみなさんがお持ちでしょう。「見方」を変えるほど強力なツールになる、という意味で、書籍はかなりビジュアルなメディアであると言えるのではないでしょうか。しかも、通常のビジュアルコミュニケーションは、与えられた映像を受容するだけなのに対し、書籍を利用したビジュアルコミュニケーションは「自らが作り出している」という点が決定的に違います。ただ、その「視座」を他人にビジュアルに伝えるのがなかなか難しいというだけの話です。
私たちは「書籍を読む」と普通に言いますが、書籍「を」読む場合と、書籍「で」読む場合には大きくその内容が変わってきます。前者は文字通り、その書籍が提供する世界に没頭することかもしれませんが、後者の場合は、自分の世界観に特定の書籍というフィルターを装着してみることで、読み解き方が変わる、ということを意味します。読み解いた後のビジュアルコミュニケーションには何らかの変化があるはずです。
幸か不幸か、このフィルターが一日あたり200種類以上も量産されているため、どれを利用すべきなのかという課題は残りますが、利用の仕方を間違えなければ、これほど優れたビジュアルコミュニケーションツールはない、と言ってもいいのではないでしょうか。
こうして考えてみると、「書評」はどのように活用すべきなのか、少し見えてくる部分があります。単純に言ってしまえば、私たちが欲しいのは「このフィルターにはこういう効果があるのでこういう時に利用すると、このようにきれいに見えてきますよ。私はこういう時に使ってみたんですけどね」という論評ではないでしょうか。書評者がそのフィルターを利用して撮影している情景が手に取るようにわかれば、それが自分にとって必要なフィルターかそうでないかの判断はかなりラクになるはずです。
言い換えれば、書評者がフィルターとしての書籍を利用したときの「状況」そのものがコンテンツとしての書評だ、ということでしょう。どのような書評であれ、その書評者の経験値と文脈(機会提供軸)の2軸が明快に提供されること、これが優れた書評の条件ではないかと思います。